高陽院 (邸宅) (Kayain (a residence))

高陽院(かやいん・賀陽院)は、平安京にあった里内裏の一つ。
西洞院大路の西・大炊御門大路の北にあった南北2町(後4町)の大規模な邸宅であった。

元は桓武天皇の皇子・賀陽親王の邸宅であったとされ、その後所有者は転々としたが、11世紀初頭に摂政藤原頼通は、この地を大いに気に入って敷地を倍の4町に広げて豪華な寝殿造の建物を造営した。
頼通はここを拠点に長期政権を運営していた。
宇治平等院に引退した際に所有権は摂関家歴代当主に継承させるものの、邸宅自体は歴代天皇の里内裏として提供された。
後冷泉天皇以来5代の天皇はここに居住した。
鳥羽天皇の妃であった藤原泰子(頼通の玄孫、父は関白藤原忠実)に高陽院の女院号が与えられたのも、ここに居住していた事に由来する。

以後も火災のたびに再建され、後鳥羽上皇もここを御所として院政の拠点とした。
承久の乱につながる鎌倉幕府打倒の謀議が行われたのも高陽院であった。
乱直後の貞応2年(1223年)に放火にあって焼失したものの、幕府を憚って以後再建される事はなかった。

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